【コラム】ヴィパッサナー瞑想で得た静かな革命 〜痛みの奥に、愛があった〜

今年、私は千葉で4回目のヴィパッサナー瞑想に参加します。これまで3度、北カリフォルニアで10日間の沈黙の瞑想合宿を体験しました。今回は、ある方から「ヴィパッサナー瞑想を体験して、どんな変化がありましたか?」という問いをいただき、この問いに答える形で、改めて自分の内面を見つめ、言葉にしてみたいと思います。

無意識から意識へ――「観察者」としての目覚め

ヴィパッサナー瞑想の実践によって、最も大きく変化したのは「自分の状態に対して意識的である」という感覚です。感情が揺れたとき、怒りがこみあげたとき、過去や未来に心がとらわれそうになったとき、その状態をただ客観的に観察できるようになったのです。

デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言いましたが、今の私はむしろ、「我を観る我」が“本当の自分”だと感じています。思考や感情をただ観察している存在、それが真我。その視点に立てたとき、人間関係における衝突や葛藤でさえ、ただの現象として見ることができます。

感覚の世界から見える「今ここ」の真実

ヴィパッサナーでは、最初の3日間、ひたすら呼吸や鼻の下の小さなエリアの感覚を観察します。とても地味で退屈にも思える修行ですが、このプロセスを通して、あらゆる身体感覚や心の動きが、まさに一瞬ごとに変化し続けていることに気づきます。

痛みも快感も、喜びも不安も、すべては移ろいゆく現象です。善悪や正誤、好き嫌いといったラベルを貼るのは、私たちの“思考”であり、そこに執着が生まれます。しかし、感覚そのものをありのままに、心穏やかに観察できたとき、そこにはただ「今」があるだけです。

苦しみの根源と、それを超える方法

人間だけが持つ「後悔」や「不安」、「恨み」や「怒り」は、どれも思考=自我の産物です。そしてその反応の多くは、無意識に起こっています。私たちが無意識に反応することで、自他を傷つける言葉や行動が生まれ、社会的には戦争や差別、家庭内暴力といったかたちで現れます。

でも、もし一人ひとりが「今、この瞬間」をあるがままに受けとめ、心穏やかにそれを観察することができたなら──それだけで世界は平和になる。これは理想論ではなく、私がヴィパッサナーの中で体感した「実感」です。

真の平和は、内なる平穏から

政治や経済がいかに整備されても、それだけでは人々の心に本当の安心はもたらされません。社会保障は必要です。しかしそれは補助輪であり、最終的には一人ひとりの「心の平穏」こそが、最も深く、長く、確かな支えになります。

ヴィパッサナー瞑想は、その平穏に近づくための方法論であり、哲学であり、実践です。そしてこれは宗教ではありません。あくまで“自分で体験し、実感する”ことに意味があります。

痛みの奥に見つけた「愛」

初めての参加の際、5日目の午後、私は一時間のグループ瞑想中、強烈な足の痛みと対峙していました。しかし不思議なことに、その痛みを「悪」と捉えず、ただあるがままに観察することで、痛みは痛みでなくなっていったのです。

そしてその奥にあったのは、涙でした。かつての傷ついた体験、怒りや悔しさが、静かに浮かんでは昇華していきました。その時感じたのは、

「すべての体験は、自分に何かを教えるためにあった」

という深い納得感と、

「結局、すべては愛だったのかもしれない」

という感覚でした。

最後に──あなたに伝えたいこと

4回目の瞑想を前にして、私は何かを期待しているわけではありません。ただ、あるがままを観察し続けることを大切にしたい。それだけです。

この文章が、どこかの誰かにとって、何かのきっかけになれば。そう願っています。ビジネスに結びついたら嬉しい。でも、それ以上に、誰かの内面の旅の扉が開くきっかけになれたなら、こんなに嬉しいことはありません。

世界平和は遠い話ではありません。私たち一人ひとりの心の中から始まるのだと、私は信じています。

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